ドナドナ
ワクチンを打つためには、接種会場に行かなければならなかった。
会場に行く手段は送迎バス。
指定されたバス乗り場に行くと、4,50代くらいの男女が十数人いた。中には高齢者とみられる人もいた。番号が振られた仮設の待合椅子に順番通りに座り、皆、無言で一点を見つめながら疲れた様子でバスを待っていた。あたしが席に着くと隣に座っていた上品そうな老婦人と目が合った。お互いどちらからともなく薄い笑顔を浮かべ会釈した。声をかけてみようかと思ったけれど、その場の雰囲気がそれを許さなかった。そして、その老婦人には息子のような若い付添人がいた。
「そこに座ってたらいいから」
彼はそう言うと少し離れたところに立ってバスが来るのを待っていた。
バスがやってきた。順番通りといえども、皆、せっつくようにバスに乗り込み空いている席を探す。先ほどの老婦人も付添人に促されて席に着けたようだ。
「このバスは接種会場行きです。途中には止まりません」
会場までノンストップ。外の景色も見られない…わけない。あたしの隣では若い娘がスマホに夢中になっていた。目を閉じている中年の男。しきりに自分の鞄の中を掻きまわしている女。あたしはぽつりぽつりと灯りが灯り始めた街並みを眺めていた。
バスが大きく旋回して会場に着いた。係員が大声で誘導している。男も女も老いも若きも我先にと列に並ぶ。先ほどの老婦人が付添人に付き添われ、係員に何事かを聞かれているのか、懇願するような眼差しでしきりに首を縦に振っているのが遠くに見えた。あたしたちは手際よく捌かれていく。自分たちが何かのモノになったような気になる。そう、ベルトコンベアーに載せられた荷物だ。名前と番号を振られた荷物だ。あたしも名前と番号が書かれた紙を手に持ち列に並ぶ。次はどこに行くのか?何を聞かれるのか?分からないままに言われるがままに先に進む。会場の中に入ると床に赤や黄色や青色のテープが貼られそれに従って進んでいく。それぞれ行く先が違う。途中でいくつかの部屋の前を通る。多くの人が座っている部屋。なにもない部屋。進入禁止の通路。後ろから人が追い越していく。みんな、なにをそんなに行き急ぐのか。だめだ!気をしっかり持って!このシステムに飲み込まれてはいけない!!
「この先は最終チェックです」
誘導された場所へ行くと禿げ頭の眼光鋭い医者に現在の状態を最終確認された。問題なし。医者はサインした。そこを出るとパーテーションで仕切られたブースがいくつもあり、
「奥へ!奥へ!」
と言われ、どんどん奥へと入っていった。結局、ドン突きのブースまで来てしまった。入ると恰幅の良い白衣を着た白髪の医者と若いナースが退屈そうに座っていた。
「荷物はそこに置いてここに座ってください」
とナースに言われた。机の上には注射器が何本か置かれていた。
その1本を手に取ると、医者は
「アルコールは大丈夫ですか?」
と聞いてきた。
「では、打ちますよ」
プスっと針を刺した。プス、そんな音が聞こえた気がした。
「痺れますか?」
「いいえ」
「では、3分間、押さえといてください」
と言い、絆創膏を貼った。あたしはおもむろに上着を羽織りブースを出た。
最後に案内された部屋には打たれた人たちが待機していた。これで終わった。老婦人の姿を探したがいなかった。
帰りもバスに乗った。行きのバスほど人は乗っていなかった。皆の顔が行きよりも疲れているように見えた。「行きはよいよい、帰りはこわい」。いや、安堵感なのか。外はすっかり暗くなり、濡れた路面が光っていた。左腕がすこし疼いた。明日がコワい。
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